「アンティオキア教会」  06.01.15
                 使徒言行録11:19〜30

 私たちは、どんな時にも、悲しみが結末でないことを信じて生きて
いくことができます。自分を救うために、独り子イエス・キリストを
十字架にかけ死なせることまでしてくださった神さまを知っている
からです。
 最終的には、私たちを永遠の喜びや平安に導きいれようとされる
全能の神さまを知り、信じているからです。

 悲しみが悲しみのままでは終わらないことが、聖書に繰り返し
描かれています。
 今日の場面は、アンティオキア教会の成立の様子が描かれます。
 後に世界伝道の拠点となる重要な教会の成立です。
 しかし、きっかけは、ステファノの殉教と迫害という、悲しい出来事
でした(19節)。どちらも、人の目には理解することができず、悲しみに
しか思えない出来事です。
 しかし、それは結末ではありませんでした。神さまは、悲しみの先を、
切り開いていかれました。
 エルサレムから散らされ、追い出されて人々は、アンティオキアまで
<行った>のです。迫害者に振り回されて、散らされ追われ続けた
のではありません。成りゆきに身を任せたのでもありません。
 神さまによって先が開かれることを信じるゆえに、自分の足で前進
するかのようにして<行く>ことができるのです。神さまが先を開いて
くださることを信じられず、悲しみが結末と信じるならば、踏み出して
いくことなどできないでしょう。
 けれども、私たちは絶望の中でも足をふみ出し、先へと<行く>のです。
 人生においても、結末が死の闇であると信じているならば、どうして
イキイキとしていられるでしょうか。天国の喜びや平安を信じるゆえに、
前を見ながら老いることができます。
 混沌とした大都会。聖書に無縁の異邦人。名前の残らない無名の人々。
 アンティオキアの伝道には、マイナスに思える状況があふれていました。
 しかし、そこに大切な教会が生まれました。

 悲しみの先を開かれる神さまは、マイナスを超えて尊いものを生み
出す神さまです。
 私たちは、そのような神さまに身を委ねながら、一歩、また一歩と
先へ進むのです。